死にたいと思いながら生きていく

生き延びるための呪文

わたしは虐待されていたのかな?

昔は虐待と躾の境界が曖昧で、暴力で子供を支配することも場合によっては教育の一環とされていたのだと思う。
私が幼い頃もそうだった。
今思えば、私が両親にされたことは虐待なのかもしれない。

父親はキレると我を忘れる人で、投げ飛ばされて窓ガラスにビビが入ったり、襖が外れて穴が空いたりした。整備されていない砂利の駐車場に車から引き摺り下ろされて蹴飛ばされた。運動場で野球をしている最中、馬乗りになって殴られた。
母親は病的なヒステリックだった。何がキッカケか、とにかく何を言っているか分からない程叫んでいた。食事中に牛乳をこぼすと脳震盪を起こす程頭を引っ叩かれた。布団叩きを使ってお尻百回叩き、昔話だと思ってたけど、わたしには日常だった。殴られた翌日痣だらけの顔で学校に行ったこともあった。担任に理由を聞かれたけど、姉と喧嘩したと答えた。大人になって知ったけど、この時担任はやり過ぎではないかと母に電話をしてきてくれたらしい。

30年程前の子供の異変に対する学校の対応は、どういったものがスタンダードだったのだろう。
もし今、顔中痣だらけのわたしが学校に登校したら、どうなるのだろう。


骨折などして病院に運ばれたことはない。
両親がわたしに暴力を振るったのも、わたしが言う事を聞かない育てにくい子供だったからかもしれない。もちろん、やってはいけないことをして殴られたこともあった。
これが社会的に虐待だったのかは分からない。
でも、そんなのはどうでもいい。
わたしにとっては、怖かったんだ。家が恐ろしかった。いつまた母はヒステリックに絶叫するのだろう。いつも怯えてた。父が機嫌が悪いと、呼吸の仕方が分からなくなり息が苦しくなった。体が固まり、動けなくなった。

きっと、怖いことだけじゃなくて、楽しかったこと、嬉しかったこと、たくさんあるはずなのに、思い出せない。優しい母だっていたはずなのに、忘れてしまう程、それでも許せないと思ってしまう程、悲しかった。今も、これからも、きっと死ぬまで苦しみ続ける。

自死した母を忘れようとしていた①

母は、56歳の時に自死しました。
自宅のクローゼットの取っ手に紐を通し、首をくくりました。


発見したのは仕事から帰ってきた父。

私はその日、有給を取得して自宅でくつろいでいました。こたつに入って寝転がりながらポテトチップスを頬張って。
いつの間にか寝ていて、お昼頃、携帯電話が鳴り続ける音で目を覚ましました。画面に表示された相手が父と分かると、後でいいや、とまた眠りにつきました。
起床したのは夜。お風呂に入り、髪の毛を乾かしながら父からの留守電を再生しました。
明らかに動揺した父の少し大きな声で「お母さんが  死にました!連絡ください」
母が死んだ?嘘でしょ?嘘でしょ!!!
激しく動揺した私は、当時同棲していた彼を別部屋から呼び、ねえお母さん死んだって!どうしたらいい?どうしたらいい?!と叫び続けました。彼に促され、震える手で何とか父へ折り返しの電話をし、母がほんとうに死んだこと、そして、自死したことを知りました。

急いで実家に向かいましたが、その日は大型台風が来ており、途中のターミナル駅で電車がストップ。運転が再開し実家に到着したころには、もう日付けをまたいでいました。
実家の最寄駅に着き、父の迎えの車に乗り込んだ時の、誰も何も母のことに触れずに過ぎる時間を、空気を、今でも鮮明に覚えています。

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昨年、息子が産まれました。
妊娠・出産に伴うホルモンバランスの変化の影響か、今まで奥底に抑え込んでいた母の記憶が一気に溢れ出し、昔のように、再び私の心を大きく揺さぶり始めました。

入院中、一人の助産師さんに言われました。
「出産はね、いろんなものが出てくるよ。忘れていたものも全部。無理矢理忘れようとするとね、いつか壊れるよ。心も体もね。いま出し切らなきゃ」

この助産師さんは何だか不思議な魅力を放っている方で、今まで誰にも話したことのなかった自分自身の話を、何故だかこの助産師さんにはお話ししたのでした。
話し始めると、涙が止まらなく、いつまでも止まらなく、深い深いところにあった悲しみが一気に溢れ出るのをしっかりと感じました。

「今、出し切らなきゃ」

うまく説明が出来ないけれど、ほんとうにそうだと思う。きっと今だ。無理矢理忘れて、無かったことにして、許せない気持ちにも蓋をして、何もなかったかのように毎日を平穏に過ごしても、息を吸うだけで疲れ果ててしまう。

もう、いいかげん、自分を救いたい。


しんどい作業を、していこう。
ゆっくりと、していこう。
息の吸い方を忘れないように。